たったひとりの顧客に愛想尽かされないように

「顧客は誰か」が最初にくるのがデザイン
「自分の作りたい物を作る」のがアート
座談会(京都TADhttp://www.facebook.com/Tech.Art.Design)での意見を平均化すればそういう話でした。
で、平均化ってどう? である。
作家にとっては、そんなのは意味ない。
「作家は書きたいこと書き続ける以外に道はないし、それでいい」
作家で生きぬくか、デザイナーとして顧客に向かうか、おおざっぱに言えば二者択一。

でも、そのこころがどんな色をしているかと、想ってみれば、けっこう同じ色。
脳みその妄想をカタチにしたような、他人に理解不能なアートであるにせよ、第三者(=顧客)に評価されてはじめて(気に入れらたり、批判されたり・・)作品は社会性を持つ。
そんなの無視、、無視という如何に自己チューなアーティストでも、内面には、「顧客」が欲しいと思う、飢えに似た欲求がある。
作品って、時代とともにあるから、時代を代弁してほしいのよ。

でもそれはマス狙いとは違う。
マスは結果であって、目指すものではない。
マス受けを狙うものは作品じゃなくて商品だ。商品を作るマーケッターでありマーチャンダイザー。
作家は書きたい物を書く、作りたい物を作る。
それがどのくらいの大きさの範囲に届くのか、届けたいのか、
100万人なのか500人なのか?
自分サイズってどのくらい?? マーケティング的に言うと、クリティカルマスを定めよう。
最初サイズのマスはひとり。
そのサイズが居心地がいいならそれでいいじゃん。心の満足は最大サイズになるはず。

ヴォルフガング・イーザー ドイツの比較文学者「行為としての読書」
「内包された読者」という読者モデル。読者がどんな性格か、年齢は、教養は、そんなことは一切考えない。実在するかどうかも考えない。作品そのものがその中に持っている読者。作品に反応するために必要な全部の条件をもった読者。「読者=理想の顧客=自分自身」

「私は誰かのために作品を作っているんじゃない」
誰かじゃない者=自分自身
最低でもたったひとりの顧客=自分自身がいる。


そこからスタート。
たったひとりの顧客に愛想尽かされないように。



TAD会場となった元立誠小学校。高瀬川の流れがすずしい。

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