小説とは読後、立ち止まって考えてしまうもの。そうありたい。
「復活の日」はまさにそう。コロナ禍の「いま読むべき本」という売り文句をこえた深淵な物語だ。ウイルスの正体やらWHO、各国要人の対応など、この半年間、メディアの情報にさらされている私たちには社会の景色も浮かぶが(WHOテドロス事務総長の顔とか)、何も起こっていない、インターネット検索もない1964年(東京オリンピックの年)に、想像で小松左京はこれを書いた。アメリカやイギリス政府の政治ゲーム的なシーンさえリアルだが、この時点で作家は一度も海外渡航経験がなかったという。
発売当時、これを読みこなすのはむずかしかっただろう。
専門用語だらけ、各国の政府、軍事、冷戦時代の思惑・・
でも、書き記し、残していくことこそ作家の役割だ。
時代を超え、記憶が、つぎの世代へ引き継がれるために。
物語の終わり頃、文章はこういうふうに綴られる。主
人公の思いであり、作家の思いであり、神の声だが、コロナ禍という厄災にいる2020年のいま、この思いは現実を見つめた、人間への率直な警鐘だ。
「人間は永遠に手いたい試行錯誤によってしか、物事を知ることができないものなのだろうか? とはいえ、今この事を書きしるしておくのは、はるかに遠い未来、ふたたび人類が”大厄災以前”の繁栄を手に入れる時のためかもしれない。人は、のどもとすぎれば、たやすく熱さを忘れる。(ひとにぎりの南極人の間に普遍化された)この認識は、あとにつづく困難な数世代にはうけつがれるかも知れない。だが、小康の世代がくれば。またたやすく忘れられるであろう。考えてみれば、大厄災以前の年月にあって、いくつもの大戦争を経過しながら、われわれもまた、それをくりかえりてきたのだ。”戦争を終わらすための戦争”という皮相な闘いを、くりかえしたのだ。しかし、人間は子孫に追憶を教えることができ、記憶をつたえることができる。いきいきとした事実を、才能ある人びとの手によってー
(中略)
復活されるべき世界は、大厄災と同様な世界であってはならない。とりわけ”ねたみの神””憎しみと復讐の神”を復活させてはならないだろう」
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パンデミックは厄災だが、そこから差別や憎しみを産んではならない。
そしてそれは、ひとが自分たちで解決すべき問題だ。
そしてひとは、それができる。
小説はこうありたい。こう書きたい。
真の名作です。
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